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The fall of the Western Roman Empire

ローマ帝国が滅亡した

 

 

 

ああそうなんだってただ漠然と歴史のストーリーを認識して

それも順番は、最初が

西ローマ帝国(395年、476年、480年)で次が、

東ローマ帝国(1453年)なのねと

思っていたけど、

 

 

結果的にそうはなっているけど

実際はちょっと違うと言うことになんとなく

ウィキペディアを読んでいたら気が付いた。

 

 

どう言うことかと言うと

 

293年   テトラルキアー帝国の4分割(ローマの重要性の低下)

313年   ミラノ勅令 ーキリスト教の公認

440年   最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)がローマ教皇

      (皇帝から教皇への実質的権限委譲の始まり)

476年   西ローマ皇帝の帝冠と紫衣を東ローマ皇帝へ返上

      (名目上東ローマ皇帝が全ローマ帝国の皇帝に)

497年   イタリア王としての東ゴート王国が創設

      (西ローマ帝国傭兵隊長オドアケル

       東ゴート王のテオドリックが破りこれを

       東ローマ皇帝が承認したため)

535〜554年 ゴート戦争 ー東ローマ皇帝ユスティニアヌス一世による

       イタリア征服

       (ローマ荒廃により元老院消滅)

569年   ランゴバルド王国による北イタリアの征服

      

773年   フランク王国カール大帝のイタリア遠征 

800年   教皇レオ3世によるカール1世への西ローマ皇帝戴冠

 

 

つまりローマ帝国は急激に滅びたのでは全く無く

500〜1000年かけて徐々に中世へと移行していったに過ぎないのです。

 もちろん東ローマ帝国オスマン帝国との戦争で滅びたのは

間違いないんですが

西ローマ帝国に関してはちょっと事情がありすぎます。

それはローマ教皇庁および教皇領そしてカトリック教会です。

皇帝を廃してもなお教皇の影響力は依然として残っていて

元は同じはずの東西ローマが年月を経るに連れて

言語文化宗教共に別の国に変わっていき

東が滅亡してのちも西はローマ教皇庁を中心にして

生き残り続けたというわけです。

 

 

 

 つまりローマの歴史に絞って順をたどりますと

 

ローマ帝国が版図を広げ過ぎて国土を分割したことで

ローマ市の重要性が低下。

 

キリスト教に国教を変更したことで

皇帝の権限の委譲→ローマ教皇

皇帝位は廃止される

 

異民族の流入と侵略に対しては

キリスト教化をもって応じる

 

ローマ皇帝がローマにこだわって戦争をしたために

ローマの荒廃→元老院消滅。

 

フランク王国の隆盛を見て(東ローマ皇帝へのあてつけ)

教皇庁よりフランク王への西ローマ皇帝戴冠へ→中世ヨーロッパの始まり

 

おおまかにいうとこんな感じみたいです。

すべてウィキから(//∇//)

 いやー歴史は面白いです。